明主様の観音運動 (神慈秀明会会員の通勤カレッジ)
「明主様の観音運動」は、明主様・岡田茂吉師の戦前の御教えのうち宗教色の強いものを整理したサイトです。
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善悪不二の世界
明主様の御眼力 3の6  長老OSの寄稿 (昭和27年11月25日発行)

善悪不二の世界

「御話はまだ続きます「地上天国を作るにはさほどむずかしい事では無い。

善と悪とを結べば悪は負けて引込むから善くなるのであって、

今まで許してあった悪の世もいよいよ清掃される時が来た訳で

今まで悪人のはばった世の中も、時が来たため最早神様も悪はお許しにならんから

今後悪い事をすれば必ず早速に見付けられ、罰を受ける事に成るから、

これは悪は駄目だと悟って来るのである」と。

これは観音様が主神の御命令によって、この日本を基点として大光明世界を作られるので、

とても想像もつかない天国を御創に成られるのであって、

これを善悪無差別、善悪不二の世界と言うのである。

これによって今迄あった善も悪もいずれも、今日迄はやはり必要であった事もよく解るのであります。

なお又時期は恐ろしいもので、年号までも昭和と変った。

昭和の文字はその意味だとの御言葉であります。

これをもって見てもいよいよ大光明世界即ち真善美の地上天国は必ず開けるのであると、有難い御教えを賜わったのでありました。」

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富士山こそは観音様の御神体
明主様の御眼力 3の5  長老OSの寄稿 (昭和27年11月25日発行)

富士山こそは観音様の御神体

「明主様が何故梅の花に準えられるかと言いますと富士山に坐ます御観音様は兄の花姫尊と申されて

女体の御観音様で兄の花(このはな)とは一番先に春に魁けて咲く梅の事であります。

明主様はこの御観音様の御生れ変りであられるからで、

一方富士山麓の浅間神社の御祭神は木の花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)でこの木の花こそは桜で、

梅は日本に準えられ桜は外国に準えられているのが霊界での定められた事であります。

なお又富士山は昔から霊山とされておりますが、

この富士山こそは観音様の御体と言ってもよいのであって尊い御山であります。」 つづく

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明主様の日記
明主様の御眼力 3の4  長老OSの寄稿 (昭和27年11月25日発行)

明主様の日記

「昭和七年八月三十日、明主様は私一人に御因縁や神様の事、又明主様の御用の大切なお話を聞かせて戴き、

又御大切な御日記をも拝見させて戴き、大体の記憶を筆記致し置きましたのでその大要を書かせて戴きます。

昭和二年より、神様が明主様の御肉体を通じて御口述や御筆先を正式に御書き始めになられたのでありますが、

明主様も神様の御用の重大なるを知られて昭和二年二月四日節分の日を期し、

小間物業を店員に譲られて信仰の道に専念なされる事になられたのであります。

神様の御用の間にも御隙を見ては御店に御出でに成られて、親しく御導き遊ばされる御様子で、

実に御譲りに成って終われた御店の事までも御親切に御世話を遊ばされる御仁慈は、誠に恐れ多い極みでありました。


なお又昭和二年から明主様には御日記を御書きになるように御決定遊ばされて、

それより後は御日記をお書き遊ばすことは一日も御欠きになられず、

必ず毎晩きちんと御書きになられるその御性格の几帳面であられるのも実に恐れ入った事で、

杜撰な我々は実に申し訳ない事と存じます。



私はこの古い御日記を拝見させて戴きましたので実に有難い事と感泣致しております次第でありますが、

これが明主様の神憑りにお成りになられたり、

御筆先を御始め遊ばされた頃の御日常の御一端であります。

御憑りなされた神様は勿論主神であられる事も間違い無い事であります。」 つづく

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リンゴ一箱を食う蜘蛛の憑依者
明主様の御眼力 3の3  長老OSの寄稿 (昭和27年11月25日発行)

リンゴ一箱を食う蜘蛛の憑依者

「又、東北地方より霊憑りのどえらい病人が来ましたが、

林檎や梨など一晩に一箱でも盗んで平らげて終う豪の者で。

Mと云う男でした。

明主様が「蜘蛛の霊だ」と御聞かせ下されたので、蔭では皆 蜘蛛々々と言ったが、

この蜘蛛は雲に通じ、光を隠す物なるため実に御邪魔ばかりしていたのですが、

明主様の御手許にはこのような者が澤山入り込んでいた事も

皆神様の御用の御邪魔さすべく悪魔から派遣されて

御奉仕を名として御邪魔しに来たので、

神様の御用に日夜御精励遊ばす明主様も、御並大抵では無かったのであります。

何程悪魔が御邪魔しても必ずいよいよ最後と思うような時、必ず何時でも御勝ちになられるのは

「悪魔は九分九厘で神様は一厘だが、その一厘の力で跳ね反す」と仰せられます通りで、

いかに智慧をしぼってもいつでも悪魔は負けて退散するのが例であります。」 つづく

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明主様の悪口を言うとバチがあたる
明主様の御眼力 3の2  長老OSの寄稿 (昭和27年11月25日発行)

明主様の悪口を言うとバチがあたる

「この頃銀座の兄の姪大木美保子が肺を病み、血痰を吐くようになったため、

明主様に御願いして治して戴き、忽ち全快致しましたため会員と成りました。

昭和七年一月元日、銀座の兄が自分の姪がバッヂを胸に着けているのを見て「それは何だ」と問うたところ、

「観音様のバッヂだ」と答えたので、

「そんな物を着けやがって」と大変な勢で胸から引きむしり火鉢の中へ叩き込み、

会の悪口から誠に恐れ多い勿体ない事ながら

明主様に対し奉り悪口雑言して夕方帰って行きましたが、

正月二日の朝 肺病にて鎌倉に静養中の長男が突然容態急変し忽然と死んだので、

信仰なき店員すらも昨夕から今朝の出来事とて「あゝ観音様の罰が当った」と一斉にさわぎました。

その後もこの兄は観音様や明主様の悪口の直後に必ず罰が当りましたが、

何としても信仰嫌いのために全滅するより致し方なかったので有ります。


又明主様は何事にも小さい型をもって将来への大きな勝利の道を御開きになられるので有ります。

実に小さい型ながらもその後来るべき時の勝利は大変に大きい事ばかりで、

実に世界人類救済のため御尽し遊ばされる御苦労は恐れ多い次第で有ります。」 つづく

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扇子による病気治し
明主様の御眼力 3の1  長老OSの寄稿 (昭和27年11月25日発行)

扇子による病気治し

「前号の如く明主様は言霊で病気治療を御始め遊ばされましたが、

ただ単に“痛み去れ”と言霊を御発射毎にピタリと痛みは去るものの

病毒を取り去る事を主となされる御目的なるため痛みは去っても毒が取れないからと

御悟り遊ばされて言霊治療を止められ又普通の御治療に帰られました。

これより先明主様には今現在のごとき御浄霊の御守様は無く御手代(みてしろ)

即ち明主様の御手の代りの意味で御扇子に『萬有の霊体浄むる此扇』と御書き下され、

裏面へは御雅号暉月と大書されて御立派な日本紙で封じて下され、

昭和五年十月十一日明主様御手づから下され有難く頂戴致し、

金欄の袋を作り御手代を納め懐中させて頂き、

病人の御治療を御許し下されましたが、

この頃は我々弟子は御治療で無く御取次と言う事に成っておりましたが、

この御手代で実に病気がよく治ったのでありました。

昭和六年六月十五日、明主様には奥様始め多数の信者御供して房州の日本寺に天照皇大御神様を御迎えに御出になられました。

この朝私は四時起床、掃除中東の空より西の空へ曇れる空が真二つに約八寸巾位一直線に切れ、青空の見える不思議を見せられ、

これは何か御神業と思いましたのでその晩房州より御帰りの明主様に御話し申し上げましたところ、

「あなたは行かれなかったけれど神様の方では行った事に成っているのでその様な不思議を御見せ下されたのだ」

との御言葉にて神様の御仁慈深さに実に感激致しました。

この日 仏国が降伏したのも因縁の有る事で有るとの御教えを賜わりました。」 つづく

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偉大なる御神眼と御浄霊
明主様の御眼力 2の3  長老OSの寄稿 (昭和27年10月25日発)

偉大なる御神眼と御浄霊

「明主様が御商売に御専念なされておられる内に大正九年の財界大恐慌と関東大震災とによりいよいよ御商売をお止めになり、

御神業専門に御活躍の御決心を定められて漸次御商売を縮少、店員に分与されて昭和三年からは御神業専門と成られたので有りますが、

これこそ時期到来のため神様よりの御啓示と御悟りに成られたためであります。

明主様は何でも御自由で在られるのですが御神意に反する事や時期の来らざるため御控えになっておられるので、

一例として記せば昭和七年のある日雨降りでお困りのため外へ向かわれ

「雨止め雨止め」と小さなお声で二回仰せられると雨は止んで終ったのです。

実に恐れ入った御神力に驚きましたが

その後「あれ程のお力がおありなのに何故時々の雨を御止めに成らないので御座いますか」と御伺いすれば

「雨でも風でも暴風雨でも皆神様の御心によってあるもので、

それを止める事は御神意に反する事で神意の御邪魔をする事になるからやらないだけですよ」との御言葉を頂き誠に恐れ入った次第でありました。

ちょうどこの時分病気を言霊で御治し遊ばされた事がありましたが、

実に大変な御神力で、例えばいかなる頭痛でも又腹痛でもいかに苦しんでいる患者でも

誰それ(患者の氏名)の頭とか腹の「痛み去れっ」とおっしゃってフッフッと二回吹かれるとピタッと痛みが治るのでしたから実に簡単であります。

ある日大宮で治療していたTY氏が来た時、明主様は「Tさん、あなたに一度だけ言霊で治療を許すからやって御覧」と御許しなされたのです。

するとちょうどHT氏とて酒屋の主人が非常なる腹痛で来たので

Tさんは大気取で「Hさんそこへ寝ろ俺が今日は治してやる」と寝させて

「HTの腹の痛み去れっ、フッフッ」とやり、

どうだHさんと言えば、H氏は腹の痛みが一時にフッ飛んで終ったので、

「アレッおめえでも出来るのか、これはポロクサイ酒屋なんて止めだ」と遂に酒屋を止めて御弟子と成り、

後には麹町で明主様の助手と成ったのでありましたが、

このように明主様の御口で「一度だけ言霊を許す」とおっしゃれば必ず凡人でも出来るので

いかに明主様の御神格が御高いか又いかに御力があられるかと言う事がよく拝察されるのでありまして、実に恐入った御神力であられます。」

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笑い冠句の会にて 2
明主様の御眼力 2の2  長老OSの寄稿 (昭和27年10月25日発)

笑い冠句の会にて 2

「明主様の御眼力はただの一度笑冠句拝聴に参上した未信者までもちゃんと御眼に留り、

その死を御見通し下されたのを私の不明のため御助けを戴きに参上さす事出来ず誠に申訳の無い事をして終ったのであります。

ところがこの最後の前の日午前十一時半過に喜一郎氏が又飛込んで来て

「叔父さん叔父さんもう駄目だ。だけど親戚が皆遠いので電報を打っても間に合わんので困っちゃった」と悲しむので、

私はフト思い付き、よしよし私が御観音様に御願いして一昼夜寿命を延して戴いて上げようと早速二階に駆上り御観音様に右の由を奏上致し、

ただ今より一昼夜寿命を御延し下さる様に御願い申し上げて店に降りた時正午十二時を打ちました。

そこで私は店員に言明致しました。

「隣の親父の寿命は明日の十二時までは大丈夫だよ。

その代り明日十二時を打てば御観音様に御礼を奏上しなくては成らないから皆そのつもりでいてくれ」と申渡して終いました。

その内又K氏が見え「どうだ」と問えば「何だか工合がいい様だ」と言うので

「大丈夫だよ、明日のお昼まで寿命を御観音様に御願いしてあるから」と申しますと、変な顔して帰って行きました。

遂に御願いは見事御聞届け下さいました。

次の日の正午は鳴って終いましたので私は二階に上り御礼を奏上じて降りて来るのと、K氏の飛込んで来るのと同時で、

「叔父さん叔父さんもう駄目だ」との事に行って見れば早霊魂は、永遠にKK氏の体から飛去り、不帰の客とは成っていたのです。

されどもその顔は相も変らず鶏そのままの姿には変りません。

鳥の首を締めては売るため鳥の霊に首をやられて死ぬ時は鶏の顔と成って死ぬ。


このような事を書けば現代文化のお蔭を蒙むった人々には一笑に付されるかも知れませんが、

まず第一に数カ月前に明主様にはKK氏の死を言明されておられるその御神眼の確実さなど現代医学などにては真似すら出来ないのです。
 
科学万能と口にば称えても、天地の真相すら知らぬ現代学者の学説こそ不思議である。

第一皆さんの一分一秒たりとも無くて成らない空気は誰が製造するのでしょう。

ただ人間が空気を吸って酸素を吸収し、炭酸ガスを吐くその炭酸ガスは植物が吸うまではよいが、吸えとも尽きぬ空気はどこから出来て来るか。

又現代人の非常に恐れる黴菌なぞ空気中には何程でも有るのにこれを恐れざる我々は何の事なく、これを恐れる文化人は病気に罹る。

又先年までは神国日本とか神の国とか言っていた人々が戦争に負けて急に口をつぐみ、逆に神なぞ無いと断定したのは正に笑止の沙汰であります。

又一方科学もて最新の知識を集めて出来上った飛行機も一朝にして三原山腹の露と消えた。

見よ天地の運行を何万年といえども変らず大暴風の日も大逆風の時も順風の日も天気晴朗の日も規定通り些少の差すらも無く運行されているこれをただの引力位の説にて解決出来得べきものであろうか。

天地創造の神様は、定めし御苦笑遊ばされておられる事と拝察致します。」 つづく

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笑い冠句の会にて 1
明主様の御眼力 2の1  長老OSの寄稿 (昭和27年10月25日発)

笑い冠句の会にて 1

「明主様の大森の御屋敷に私が参上致す様になってから

昭和七年一月二十二日に明主様の御予言通り店を取られて御屋敷で専門に御用させて戴く様に成った。

この間御予言を戴いてから一年八カ月で有りましたが、

この間もほとんど毎晩のごとく御屋敷に参上御話を拝聴させて戴く内にも驚くべき事が有りました。

昭和五年八月御発表になり「来月から天人会を始めて笑冠句をやるから投句する様に」とて御題を発表されましたのですが、

私はどんな風に作ったら宜しいやら初めての事とて第一回を拝聴の上でと思い投句は止めましたところが

九月十日御発表になられると、実に何とも言い難い非常に愉快なので、

明主様も涙を御流しに成られてお笑いになられ、

会員たる我我はお腹が痛くなる程笑わされるその面白さに

私も第二回目からどんどん投句させで戴き、

珍宝と雅眈を頂戴して最初の投句から御短冊を御褒美に戴き、

余りに面白いので隣家和泉屋の主人を誘い参上致しました。

この日もとても面白く、巻開きも終り和泉屋の主人は先に帰って頂き、

私は御話を拝聴して真夜中まで御邪魔させて戴くのが例に成っておりますので、

御話を御聞きしております内、明主様にはフト思い出されたように

『アヽOさん和泉屋さんは駄目ですぜ』とのお言葉に私はびっくり致しました。

何故かと言えば和泉屋の主人はその頃ピンピンしていたからです。

あんな丈夫な親父が何故駄目なのかと実はお疑い申しておりました。

ところが数カ月後のある朝和泉屋の若主人K氏が飛込んで来て

「叔父さん叔父さんうちの親父は頑固で風邪を引いて声も出なく成っているのに

医者にも掛らず頑張っていて困るから意見してくれ」と云うのです。

丁度よく銀座の兄が店に来ていて「よしよし私が腎者へ連れて行ってやる」と

銀座の本多医師方へ連行診断の結果は「喉頭癌だから早速手術しなくては駄目だ」との事にて

咽喉の下部に穴を開けてその穴より呼吸する事となり、

苦しみ悩みで痩せ細り、その顔は鶏の頭のごとき形となって死んで終ったのでした。

この家では果物と洋食用に使う西洋野菜と鳥類を販売する者で鳥を締めるため咽喉をやられた事であり、

顔まで鳥の顔に変って終った事がよく判ります。」 つづく

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明主様の御言葉は実現する
明主様の御眼力 1の4  長老OSの寄稿 (昭和27年9月25日発行)

明主様の御言葉は実現する

「明主様はこの釈迦やキリストの預言をこの世に実現遊ばさるべく御現われ遊ばされた、神定の御立役者で在られる以上、

地上天国実現は決定的で、ただ、今暫くの時期を待たれるばかりである。

昭和五年五月私は弟Mが肋膜を患い、

三度目の肋膜を医者より見離されて終ったために誠に申し訳無い事ではありますが、

溺れる者は藁をもの例えで大森の明主様の邸宅へ御願いに参上致しました。

その頃は鎮魂と言ってまず天津祝詞を御奏上の上御治療下さいました。

二日目に朝御目に掛ると、明主様は私の顔を見られて、

「Oさん、あなたがねえ、今にここを(大森の御治療所の事)やるんですぜ」との御言葉でした。

ところが私は御目に掛って僅か二日目の朝の事でまだまだ御疑い申し上げておりました事ゆえ

誠に失礼な儀ですが本当に致し兼ねて「アヽそうですか」と空返事のごとく申し上げました。

明主様は「サアやりましょう」と弟Mを御鎮魂下さいましたが、

暫くして「もうこれで治りましたよ」との御言葉です。

驚いて別室に連行して「どうだ」と聞けば、

弟は「もう何ともない。有難いから御礼に御掃除番に置いて頂きたい」との事ゆえ、

早速明主様に御願い申し上げましたところ、御許が戴けましたのでその日から御用させて戴き、

その後一度も病気など罹らず四十八歳の今日水上の鉱山でピンピン御用させて頂いております。

次に私も弟が御用させて頂いておりますため毎晩のごとくに御屋敷に参上御話を拝聴きせて戴く内、

昭和七年一月二十二日、明主様御予言通り御屋敷で専門に御用させて戴ける有難い事になりました。

御言葉を戴いてより一年八ヵ月余で事実となって来ました。

明主様が御口から御出しになられた御言葉は必ずこの通り実現されるのであります。」

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出口王仁三郎師との出会い
明主様の御眼力 1の3  長老OSの寄稿 (昭和27年9月25日発行)

出口王仁三郎師との出会い

「明主様を御覧になると出口師は「岡田さん、あなたがねえ、仮にコップに水を入れ、これが薬だから飲めと言えば、それが薬になるんやぜ」と

さすが当代としては一流の霊格者たる出口師、

遂に明主様の大神格者で在らせられる事を即座に見破られたのでありました。

明主様もこの時ハッとされ、ここにおいて御確信を得られたのでありますから、

「出口師は私を見出してくれた恩人だ」との御言葉を御伺い致し宜なる哉と感じたのであります。

その出口師も御自分の地位に満足されてか明主様の御許に参画されないために遂にあのような大弾圧となり、

御気の毒な最後となられたのも昔からの因縁で何とも致し方ない事でありますが、

昭和十年に至り遂にあのような大弾圧となり潰滅し、

昭和二十二年には出口師も寂しく他界されて終ったのであります。

かねてよりこの出口王仁三郎師は世界の重要な国や人物の型をなし居る人との事を御伺い致しましたが、

出口師は○○○の型であるとかの御教を賜わりました。」 つづく

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神憑りによる啓示
明主様の御眼力 1の2  長老OSの寄稿 (昭和27年9月25日発行)

神憑りによる啓示

「これより先大正三年頃から明主様には神様から御啓示があられて御書取になられ、

又御口述の場合は奥様が御書きになられたのですが、

この時分にすでに五十万年以前より今後の事までの一切と、

御自分の御神格まで御存じの御身分に御成り遊ばされて終われたのでありますが、

何としても不思議で、御自分で御自分の御使命を疑われてお筆先を取出されては御覧になられ又仕舞い込まれるというようになされ、

果は疑問の余り縁の下に投込まれて終われたのですが、

又ハテナと御取出しになられ又投込まれると言う訳で終いには「ハテナ」と名付けられたとの御話でありました。

その内に大本教の宣伝ビラを御覧になられて、ハテナこれは私の神様と同じような事だと興味を覚えられて、

この講演を御聞きになられて益々興味々覚え、

終に綾部まで御出掛になられて、出口王仁三郎師に御面会の段取とはなられたのでありました。」 つづく

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関東大震災の予言
明主様の御眼力 1の1  長老OSの寄稿 (昭和27年9月25日発行)

関東大震災の予言

「この記事を書かせて頂く初め何と題名を付けたらよろしいかと考えると、

何としても頭脳に明主様の御眼力と出て来るので、誠に恐多く又申訳御座いませんが、御許し賜わりとうう御座います。

明主様が未だ大森の御屋敷にて宗教や病気治療に専門に御取材りに成られた昭和四年頃から、

その以前特に顕著な御力を発揮せられた実に、偉大な御眼力(と申させて頂きます)のお話から

追々と御側近にて御伺い致した中から変った御話を書かせて頂きたいとペンを執らせて頂きました。


関東大震災の有った大正十二年の五月に明主様は小間物問屋岡田商店社長であられ、

御店は横町に、御屋敷は京橋の大鋸町に在られたのですが、

その御屋敷を突然三万六千五百円で御売却(常時時価五万円以上)、

大森八景園の御屋敷を御買いになられて、パッと御移転遊ばされて終われた。

この突然の出来事に驚かれた御親戚の皆様は、「なぜそんな安値で売って終ったか」と盛んに御難詰なされたのですが、

明主様は平然と、「そんな事を言うけれど、今にみんなここへ来なきゃあならんのですぜ」とおっしゃられたので、

御親戚の皆様はただあきれられて、申される御言葉も無く引さがられてしまわれたのでありました。

ところが九月一日皆さん御承知のあの関東大震災で、東京は一日にして焼土と化し、

焼死、圧死者その数を知らずという大悲惨事が突発、

たよりに頼りし科学もて築き上げられた大東京は影も留めず、

宿るに家無く、飢ゆるも食無く、着の身着のままの罹災者は万止む無く田舎の親戚知人を求めて去って行ったのです。

明主様はかねて「東京は火の海になる」との神様よりの御啓示に依られたため

御店も仕入を手控えられ、注文あれば作って売るという式になされたため大損害を免れ得られたのでありました。

一方御親戚の反対なされた皆様はいかがかと言えば、皆御焼出されとなられて、

シャツ一枚で焼け残りの品物を負われ皆大森の御座敷へ上って来られ、

「とうとう御前の言う通りになって終った」と頭を下げられて終ったのです。

明主様にはこの年五月『東京は火の海になる』と言う神様よりの御啓示と同時に

早速避難の実行と御店の仕入等万端に渉られて御実行なされたため御被害も至極少なくて終ったのです。


明主様にはこの御啓示を御受けになられても一般市民の難儀を御心に止められても、

その頃の軍部官僚の強烈なる弾圧を思われる時、いかんとも人々に知らせようもなく、

又神を信ぜぬせ人なるため実行不可能なるを察せられ、

救う術すら無い世の中を非常に御歎き遊ばされたのです。

仮に東京市民の半分がこれを信じて実行したとすれば莫大な利益であり、

又死人傷者のいかに少なくて済んだかを思う時、

今後における大難大浄化こそ一層悲しまれてならないのです。

明主様がこの時大悲惨事の来る事を世間に御発表遊ばされたとすれば如何。

必ずこの頃の強暴なりし官憲の手によって逮捕され、厳しい咎めを受けられた事は必定で、

自分から神国日本を口癖にしながら神を知らざる今の日本人を思う時、益々今後の問題こそと心が痛むのであります。」 つづく

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便所へ観音さまがついて行かれる
「問答有用 徳川夢声 連載対談」より 4 (昭和26年5月6日発行)

便所へ観音さまがついて行かれる

明主様御発言
「そうですよ。それからあるとき、大本教の話を聞きたいというので来た人があるんです。

製図かなんかの技師ですがね。

わたしを見ながら「大本教は観音さまと関係があるんですか」というんです。

「観音さまは仏だし、大本教は神さまだからあんまり関係がない」

「先生の隣りに観音さまが座っておられる。いま先生が便所へ行かれたら観音さまもあとをついて行った」(笑)。

絵に描いたような観音さまで目をつむっているというんですね。

わたしは「ああそうか。まだ観音さまが目をあく時期じゃないのか」と思ってね(笑)。

そののちその人は、わたしのうちへこようと思うと、パッと観音さまが見えるというんですよ。

それじゃあわたしも観音さまと関係があるのかな、と思うようになった。それが最初です。」


夢声氏の発言
「すると第三者から教えられたわけですな。」

明主様御発言
「そうですよ。わたしから求めたわけじゃない。

それからしばらくたつと、ほかの人が「先生の頭の上に渦巻きが見える。

そのまん中に観音さまがいて、十の字が見える」と言うんです。

ちょうど観音さまが十字架をしょってるというふうに見えるってわけなんですよ。

それは前の人とは違う人が言うんですからね。

わたしはますます信頼を増した。

その後いろいろ奇蹟がありますしね。

要するに観音さまがわたしを使って救いをやるんだってことが確実にわかったんです。

字(もとは「光」、いまは「浄」)を書いてふところに入れさせると、病気がなおるんですからね、現実に(一字が何千円とくると、一枚何千円の文豪なんかアワレムベシ)。」


夢声氏の発言
「それはどういうところから思いつかれたんですか。」

明主様御発言
「そらあもう自然に浮かぶんです。」


夢声氏の発言
「つまり霊界から教えられたわけですな。・・・あなたがお描きになったその千手観音の絵はどうなりましたか。」

明主様御発言
「その美容師の亭主が銀座で床屋をやってたんですがね、それが酔っぱらって帰ってきて、七分通りできた千手観音をナイフでズタズタに切っちゃった。」


夢声氏の発言
「なんだって切ったんです。」

明主様御発言
「それがおもしろいんですね。

電話がかかって行ってみると切られてる。

ひどい目にあったと思いましたね。

ちょうどその二、三日前に写真に観音さまが写ったんですから、ことによったらわたしの描いてる千手観音の姿が悪いんじゃないかと思った。

写真をめがねでよく見ると、よほど違う所があるんです。

というのはわたしが描いた原図はヒゲがはえている。

写真のはヒゲがない。それからわたしの描いたのは円光がお顔のまわりにある。

写真のは体全体の円光です。

もう一つ、わたしのは雲の上へ乗られているのが、写真のは岩の上に乗られている。

なるほど天の上じゃ世の中に遠いから地へ降りなきゃならない。

お顔だけの円光じゃ小さいから、体全体の円光でなければダメだ。

観音さまは生まれたてですから、若いほうが本当だというふうに思ってね。

切ったということは神さまがこれはいかんといって切ったんだ、むしろ喜んでいいんだというんで、また新しく描き始めたんです。


それから10日ばかりたってその三階でお祭りをした。

そのときに前の名刺を持って訪ねてきた男がきて「ここでもういっぺん写真をとらしてくれ」と言う。

とったらわたしの座ってるまわりに円光が出たんですよ。

それを写真屋に焼き増しをさしたときに、ふつうの写真屋がどうしても失敗するんです。

ガラスがこわれるとか曇りができるとか言って断ってきた。

それでその男がこれは自分にやらせろといって斎戒沐浴(さいかいもくよく)して祝詞をあげてやって、やっとうまくいったんです。


そのお祭りの晩に、わたしがテーブルに寄りかかって居眠りをしてるところを、その男が電灯の光りで写真をうつした。

そうするとそれに龍が出たんです。

その男は「先生にわたしがお目にかかるときはいつも雨が降ってる」と言うんですが、たしかに降るんです。

どうしても龍神さんがいるに違いない。龍神というものは雨が必要だからというわけです。

そんなことがあってね、それからこらあもう自分はどうしても宗教でやらなきゃダメだというので、日本観音教というものをつくったんです。」 つづく

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写真にうつった千手観音のお姿
「問答有用 徳川夢声 連載対談」より 3 (昭和26年5月6日発行)

写真にうつった千手観音のお姿

夢声氏の発言
「観音さまが現われているあなたのあの写真を、パンフレットで見ましたがね、あれはどういう所でとられた写真なんですかな。」

明主様御発言
「あの写真にはね、こういう話があるんですよ。

わたしはいっぺん千手観音を描こうと思って、昔の粉本(ふんぽん)やなんかで構図をつくって、昭和九年の九月に麹町の治療所で描き始めたんです。

大本教時代に知った女の人で、赤坂に美容院をやってる先生がいて、その人の病気をわたしがなおしちゃったもんですからね。

「先生、ここはお狭いから、わたしのうちにこんどできた三階の六畳の部屋でお描きになったらどうですか」と言うんです。

わたしは長四畳で五尺幅の観音さまの絵を描いていたんですからね、そらあ結構だというんでそこでやり始めたんです。


そうしてるうちに10月11日でしたか、ある男が名刺を持って訪ねてきた。

会ってみるとその男も少し普通人と違った神懸り的なところがありましたがね、

「自分は20年ばかり前に、中国を漫遊して歩いて道教の信者になったんだが、

いずれ日本に観音力を持った人が五人出るだろうという御託宣があった。

ところがことしの一月、東のほうへ現われているからということなんで、それを探していた」と言うんです。

その男は渋谷にいた男で、東のほうっていうとつまり赤坂か麹町だと言うんですね。

「たまたま知人の所へきょう寄ったところが、霊力で病気をなおす人が麹町平河町にいるというので、これに違いないと思って訪ねてきた」と、こう言うんですよ。

さんざん話をして帰りがけに「ひとつ写真をうつさしてもらいたい。床の間へあがってごらんなさい」ってわけで、床の間にあがって写した。

ところが写真の上へ千手観音さまの絵が出たんですよ。

あくる日「不思議なものが出ましたよ」と言って乾板を持ってきた。

わたしも写真をうつすときに、なんかただごとじゃないと思ったんですけどね(だれですか、眉にツバをつけるのは?)。」


夢声氏の発言
「ああいうような写真をインチキでつくろうと思やあ、今日の写真技術ではつくれるんですけども、

しかしああいう心霊写真ってものは日本だけじゃなく、外国でまじめな学者の発表したものにもたくさんあるんでしてね。

こりゃあきっとどこかでごらんになったことのある絵なんですよ。

その絵があなたの霊に納まっていて、それがああいう映像になって乾板に感ずる、これはまあありそうなことなんですね。

もっと物理学が発達すりゃあ、そういうことはあるということになるだろうと思いますよ。

あたしどもの仮定できるような理屈で考えると、事実、観音さまがもっともわかりやすい姿で、あすこへ現われたということになるわけでしょうな。」

明主様御発言
「フラッシュをたくと同時にパッとそこへ現われた手際に感心しましたね。

観音さまは偉い力を持ったもんだ、これならどんなことでもできないはずはないと思った。

そのときまでわたしは観音さまを信仰してるわけじゃなかったんです。


夢声氏の発言
「大本教だと国常立尊(くにとこたちのみこと)ですからね。」 つづく

001295[1]
三月つづいた託宣 「日本五〇万年史」
「問答有用 徳川夢声 連載対談」より 2 (昭和26年5月6日発行)

三月つづいた託宣 「日本五〇万年史」

夢声氏の発言
「逃げられたのは、いつごろですかな。」

明主様御発言
「昭和九年の九月です。

最後の弾圧が十年の十二月ですから。

わたしは東京に幹部が二人いたうちの一人でしたからね。

もし逃げていなかったら、弾圧のときは当然やられるところだったんです。

それが逃げてたんで助かった。

それよりだいぶ前の昭和・・・、あれは大正天皇がおかくれになったころですから、昭和元年ですね、わたしは一種の神懸りになったんです。

夜の十二時になりますとね、とてもいい気持ちになってくるんですよ。

なんかしゃべりたくなるんですね。

しゃべりたくなると、最初はとめていたけれども、もうとまらなくなる。(笑)

口から出てきちゃう。おもしろいことが出るんですよ、ぜんぜん知らないことが。

日本歴史ですね、日本の国の五〇万年以前ぐらいからの状態が口から出てくるんです。

大本教で聞いてますからね、こいつあ神懸りってもんだと思って、それを家内に筆記さしたんですよ。

三カ月毎晩、十二時から二時ごろまで。」


夢声氏の発言
「それまではふつうの状態だったんですか。」

明主様御発言
「ええ、ふつうですよ。自分で神懸りになろうともなんとも思ってやしなかった。

大本教信者の中でもわたしは変わりもので、大本教じゃ肉食は絶対いけないとされてるんだが、わたしは牛肉でもさかんに食うんです。

洋服着るのも大本教じゃわたし一人だった。

ひとが「君、牛なんか食っちゃ信仰の道に違うじゃないか」っていうと、

「大本教は世界を救う宗教だ。牛肉も食わなかったら外人は救えないじゃないか」というようなことを言いましたがね。(笑)

ところがこういうことで、かえってわたしは信者から重く見られるし、出口王仁三郎という人も、わたしを特別にかわいがった。

大本教を信仰したお蔭で、現界のほかに霊界というものがある。

人間は霊がもとだということがわかったんです。


大本教へ入る前は、わたしは無神論者のカチカチで、神社のまえ通ったって頭を下げたことがない。

頭を下げてるのを見るとツマラナイと思っていた。人間が入れた石っころや鏡や紙っきれを、人間が拝むなんて、そんなバカなことはないってんでね。

ところが大本教へ入ってみると、なるほど神さまはあると思った。

いろいろな奇蹟がありましてね。


で、いま言った神懸りも一種の奇蹟なんですね。

三カ月ぐらいでピタッととまったが、その間じゅう、過去、現在、未来にわたっていろんなことが出てくる。

そのうちに、わたしはなんのために生まれたかということが出た。

そんな大きな使命をもって生まれたのか、こらたいへんだと思った。

そこでこんどは神霊によって病気をなおす研究、それをやったんです。

昭和三年から九年まで六年間修行をして、人助けをやろうというので麹町に民間治療という看板をあげたんです。

ところがどんどんなおるから大繁昌をしたんですね。

その間にもいろんな奇蹟が起りましたよ。」 つづく

000239[1]
小間物屋で成功 破産して大本教へ
「問答有用 徳川夢声 連載対談」より 1 (昭和26年5月6日発行)

小間物屋で成功 破産して大本教へ

夢声氏の発言
「あなたの宗教観というものは、もちろん一日でもってできたもんじゃなく、

だんだん成長してここまでこられ、今後も成長するもんだろうと思いますがね、

どういう経路でこういうことになったんでござんしょうか。

外面的な経路でなく、神に対する考え方の経路ですな。」

明主様御発言
「体裁よくいわずそのまんま言えば、こういうわけなんですよ。

わたしは宗教家になろうとはぜんぜん若いときから思っちゃいなかった。

最初は絵描きになろうと思ったんです。

それで美術学校に入ったくらいですから。

ところが目が悪くなってやめちゃった。

それから肺病になって寝て、これもやっとなおったんです。

それからまあ、つらつら世の中を見ると、どうもこれからは金儲けだ、実業だと思いましてね、

なんでもひとつ金儲けに取っつこうというんで、小さな小間物屋の売りものがあったのでそこを買った。

それくらいの金は、おやじからもらって持ってたんですよ。

そうしてやってみると、まあうまく当たったんですね。

一五万か二〇万ぐらいの金ができた。

大正八、九年ですからね、ひとつの成功者ってわけです。」


夢声氏の発言
「二〇万、いまの金なら少なくとも二〇〇万、いや二〇〇〇万か! 大成功者ですね。なにしろ高柳(淳之助)が一万円貯金法というんで成功した時代ですから。」

明主様御発言
「ああ、わたしもあれをやったんですよ、一万円貯金を(笑)。

金というやつは、でき始めると速度を増すもので、二、三年で一五万から二〇万になって、わたしは有頂天になっちゃった。

ところがね、世の中の間違ったことに対する憤慨性がわたしはあるもんですからね、

そのころの世の中を見ると、どうしても社会改革をしたくってしようがない。

だから一時は共産主義思想にもなりましたよ(オヒカリ様の共産思想はユカイ!)。

しかし結局は社会を改革するのは新聞だと思った。

新聞社をやってみようというんで調べてみると、当時どうしても一〇〇万円以上の金を持たなきゃダメだというんです。

そこで一〇〇万円目標にいろいろ仕事を拡張したり、頼まれて金を融通してやったり・・・、

金を融通したといっても直接じゃなく、それぞれ専門家があってそのほうへ回すわけです。

あの時分は景気がよかった。ようし、五、六年たったら一〇〇万円になるかもしれないという目算でいた。

ところが大正九年の三月のガラ(暴落)で、ひとたまりもなくひっくり返っちゃったんですよ。

金を貸した関係の銀行の破産やなんかでね。

その結果、苦しいときの神だのみでね、信仰を求めたわけです。

いろんな信仰をあさってみたが、どうも気にいったのがない。

当時ちょうど大本教が世の中に知れ始めたときです。」


夢声氏の発言
「ああ、そうでしたな(そのころ、故OK氏が入信して、「松竹キネマ」が記録映画「大本教」を撮ったりした)。」

明主様御発言
「お筆先なんか読んでみると、とにかく引きつけるものがあるんですよ。

よし、大本教に入ってやろうってんで入った。

そうしているうちに、なかなかおもしろいけれども、ヘンなところが見えてきたんですね。

というのはつまり皇室に関係したことがだいぶあるらしかったですよ。

これはやっつけられる、いまのうちに逃げちゃったほうがいいってんで、最後の弾圧の前の年にわたしは逃げちゃったんです。」 つづく

000008[1]
「実談、虚談 神懸りな話」より 2 
「実談、虚談 神懸りな話」より 2 (昭和27年10月25日)

天皇制で悩まされる

明主様御発言
「そこで小間物屋を止めちゃって、神様のほうをやった。

それよりちょっと前から、私がやると病気がよく治る。

私自身も自分でやっても、具合がいいし、これで食うだけは食えるという自信ができた。

食うだけは収入があったわけだ。

そんなわけで大本教に入ったのだが、まあ、非常に重要な地位につかされて、出口王仁三郎さんから特別扱いされた。

だんだんやっているうちに、どうも大本教にはいい所もあるが、欠陥もあると気づいた。

欠陥というのは、あの人の個人的な行為になんかというと不敬にわたることがある。

こりゃいずれは必ずやられると思った。ちょうど私が大本教から脱退した翌年、大本教事件が起った。

で、私はつかまらずにすんだわけだ。それからそのころは「岡田式指圧療法」というのをやってた。」


日置氏の発言 
「「生長の家」の谷口雅春さんも大本教にいたんじゃないですか。」

明主様御発言
「一緒でした。あの人は、わたしより上の役をしていた。

わたしは平信者で谷口さんの所へ訪ねて行って話を聞いたことがあった。

ところが、あの人はインテリ型で、つまり大本教とはソリが合わない。大本教は古い神道だからね。」


日置氏の発言 
「戦争中はずいぶん苦労されたでしょう。」

明主様御発言
「戦争中も苦労したが、宗教法人になるまで、これには苦労したよ。

官憲に誤解されたのは根本は天皇制で、ともすれば、官憲は信者に向かって「君のほうの教祖は、教祖と天皇とどっちがありがたいといったか」なんてやらかす。

ですから拝むもとは生きた人間ではいけない。

死んだものならいいわけだ。

天理教も教祖が生きているときはやっぱり圧迫された。

死んでしまえば、もういいのだ。

ちょうど昔、徳川時代に偉い人が出ると、当局は恐れてだましちゃう、あの思想だね。」


日置氏の発言 
「敗戦で解放されたものは、国民ばかりでなく、メシヤ教が一番というわけですね。」

明主様御発言
「そう、前のようだったら、とてもだめだ。」

000641[1]
「実談、虚談 神懸りな話」より 1
「実談、虚談 神懸りな話」より 1 (昭和27年10月25日)

関東震災の予言と奇蹟の体験

明主様御発言
「大本教に入って神様があるということが分かった。

なんで分かったかというと、奇蹟が、すばらしい奇蹟が・・・これはどうしようもない。

私が疑ったりすると、これでもか、これでもかと出てくる。」


日置氏の発言
「どういうような奇蹟ですか。」

明主様御発言
「たくさんあるがね。お筆先に「いまに東京が火の海となる」ということがある。

それを私は信じて、京橋や小田原町に当時五、六万円の二階屋があったのを三万六千円で売って、大森へ引っ越した。

これが大正十年、それから二年経って大正十二年に、すっかり小田原町辺りは焼けてしまった。

これが最初。その他に私の本にいろいろ書いてあるが、

大本教に入って、信仰をやっているうちに、だんだん神様が分かってきた。

大正天皇がおかくれになるときだったが、暮れに私は、神懸りになった。

夜十二時くらいになると、ナンカ非常にいい気持ちになるんだ。

変だと思ってたが、なにか、しゃべりたくなる。

口から出てきて、とめることができないのだ。

そうすると、いろんな知りもしないことをしゃべる。

だいたいそれが日本の五十万年から前の歴史で、それを書きとめておこうというんで、家内に書かした。

そのとき、私がなんのために生まれたか、なんの仕事をせねばならぬかをすっかり言われた。

嘘とは思えないくらい、実に理路整然としている。

そして満州事変とか、日本が今日のようになるということを、すっかり言われた。

天皇制がなくなるということも分かったけれど、その当時は言うわけにいかない。

あの時分だからね。罫紙に二、四寸ぐらい書いたね。約三カ月、十二、一、二と。」


日置氏の発言
「ははあ、なるほど。」

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「明主様御神業の型」
明主様御垂示 「明主様御神業の型」 (昭和23年6月28日)

信者の質問
「大先生(註 明主様のこと)はいろいろの型をなさっておいでになる」由ですが、そのことの基礎的知識について・・・」


明主様御垂示
「これは神様がやっておいでになるのだからね。私は別になにも・・・。

これはいまは言えません、時間が来たら話をしよう。」
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